ブログを始めて1年ほど。
つづくかわからないけどとりあえずやってみようと思い始めた。
つづくもんだなーと振り返り、つづけられるかなー?と不安になりつつ、
でも、最初に思った「誰も見ないだろうから思ったことそのまま書いちゃえ」が
結構楽しー!ストレス発散?もやもやせずアップした瞬間から忘れてる!といい感じです。
そして下の文章がもうほんと。ただ書き捨て。アップしていいか不安さえ覚える。振り返って消すかも知れない。
なので良かったら、建築学生さんのどなたかが読んであれこれ議論反論のネタにしてくれると嬉しいです。
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たくさんの箇所、場所、場面にデザインの眼を持って設計図をチェックするクセがようやく付いてきたように思います。
僕はコンセプトに頼らないで、住む人の暮らしを想像することが手を動かす力になっているため、最初に決める整合性の高いコンセプトに足をとられることなくその時その場面の適した解答を設計している気がしてきました。
コンセプトがバシッと決まっていると強調したくなってそれ以外の表現は消していきます。
その表現がモチベーションになるため暮らしの探求は内包されていると決めつけてしまいクライアントが置いていかれます。先生の作った作品は誰からも賞賛されるに決まってる。そんなクライアントが抱くであろうジレンマが危険と思うのです。(わかりづらいかも。。)
ただ、目新しいコンセプトを追い求める建築家も高齢にさしかかり、一回り上から同年代までは設計手法がコンセプトではなく現実目線主義(模型主義?)に変わってきていて、アーキテクト2.0の発刊前後から様々なモデル、3Dによる可視化された検討方法が主流になってきているように思います。
そして、客観的に”とても良い建築”と思えた時点で模索が終了します。
建築家の恣意を排除し建築史の道筋に載せたという手応えが作品の”完成地点”になっているように思います。
日本の建築シーンも雲のように大きくゆっくりと形を変えながら動いているように思えます。
そして現時点。タイムラグなくグローバルに情報が集まる時代になり、世界中、現地に行かずとも視覚のみで感じられるようになりました。
つまり、行ってないけど見た。SNSの動画をみた。例えばヨーロッパの街の往来の中にいる視覚体験を得た。どこかの有名な山頂からスカイダイビングをする視覚体験だけをした。など、こんな状態の人が増え続けているということです。(僕も!)
世界でこれほど視覚による情報が多くなったことはないでしょう。日本にいながら視覚のみが世界中の体験を追っているのです。
そしてこんな世界で建築において重要になるのは、匂い、触る、話し声など視覚以外の全てです。
きっと、それぞれの国がもつ独特な雰囲気を個性で表現できる人、もしくはクライアントがもつ個性を空間に置換し表現できる能力がこれから数年、建築界を引っ張っていく気がします。
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